劇場が再び劇場として動き出します。補修工事、床の張り替え、設備更新などを終え、新たなる劇場の船出の準備ができました。出航です。そして舞台に集う人たちは、夢から夢へと繋いでいきます。2024年、劇場に一歩踏み入れるとまたそこから時間が刻みはじめます。
29年前にまっさらだった劇場は、ゆっくりと時間をかけ音の波紋、言葉の泡、人の躍動、高揚と興奮、永遠、律動、笑顔や喝采、そんな結晶を作ってきました。そして30年を経た今、再びオープンすることは、とても意味深いです。あらたな未来をさらに刻んでいければと思います。劇場が、みなさんとの拠り所、クロッシングする場としてこれからもあり続ければ幸いです。
彩の国さいたま芸術劇場芸術監督
近藤 良平
彩の国さいたま芸術劇場30周年おめでとうございます!
ご縁があり「30th」書きました!
グルングルンと思わず巻きこまれたくなる渦。
そしてワクワクする未来への入口。あたりをイメージして!
新しいサイゲイ! 楽しみです!
安田 有吾
(書楽家・コンドルズ)
3月 県民芸術劇場(仮称)基本計画策定
7月 財団法人埼玉県芸術文化振興財団設立
3月 埼玉県彩の国さいたま芸術劇場条例公布
4月 財団が埼玉県から「彩の国さいたま芸術劇場」の管理を受託
10月15日 彩の国さいたま芸術劇場開館
諸井誠が同館初代館長・芸術監督に就任
3月 ベートーヴェン オペラ《フィデーリオ》上演
4月 「ピアニスト100」がスタート
1月 蜷川幸雄が彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督に就任
「彩の国シェイクスピア・シリーズ」がスタート
1月 「彩の国キリアン・プロジェクト」がスタート
「ベートーヴェンの全32曲のピアノ・ソナタを語り・聴く会」がスタート
7月 国際共同制作 ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団『天地 TENCHI』上演
4月 財団が埼玉県から彩の国さいたま芸術劇場の指定管理者としての指定を受ける
(第1期2009年3月31日まで)
蜷川幸雄が2代目芸術監督に就任
「さいたまゴールド・シアター」発足
5月 「コンドルズ埼玉公演」がスタート
3月 「ピアニスト100」が完結
6月 「ピアノ・エトワール・シリーズ」がスタート
4月 財団が埼玉県から彩の国さいたま芸術劇場の指定管理者としての指定を受ける
(第2期2012年3月31日まで)
10月 「さいたまネクスト・シアター」立ち上げ公演
2月 彩の国さいたま芸術劇場施設改修工事開始
4月 公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団へ移行
9月 彩の国さいたま芸術劇場リニューアルオープン
4月 財団が埼玉県から彩の国さいたま芸術劇場の指定管理者としての指定を受ける
(第3期2015年3月31日まで)
4月 財団が埼玉県から彩の国さいたま芸術劇場の指定管理者としての指定を受ける
(第4期2020年3月31日まで)
10月 吉田鋼太郎が彩の国シェイクスピア・シリーズ2代目芸術監督就任
12月 「1万人のゴールド・シアター2016」開催(会場:さいたまスーパーアリーナ)
9月 「世界ゴールド祭2018」開催
4月 財団が埼玉県から彩の国さいたま芸術劇場の指定管理者としての指定を受ける
(第5期2025年3月31日まで)
9月 彩の国さいたま芸術劇場オープンシアター「ダンスのある星に生まれて」がスタート
4月 近藤良平が3代目芸術監督に就任
ジャンル・クロスⅠ 近藤良平 with 長塚圭史『新世界』上演
10月 彩の国さいたま芸術劇場 大規模改修工事開始
2月「彩の国シェイクスピア・シリーズ」が完結
4月 「埼玉回遊」が始動
3月 彩の国さいたま芸術劇場 リニューアルオープン
5月 「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」がスタート
10月15日 開館30周年を迎える
彩の国さいたま芸術劇場30周年おめでとうございます。
「彩の国シェイクスピア・シリーズ」に携わらせていただいてから約30年、ともに歩ませていただきました。非常に思い出も深ければ、蜷川さんとの、印象に残るたくさんの苦しかった、でもすごく有意義だった、僕の財産になる仕事を数多くやらせていただきました。
これからも「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」でお世話になると思います。たくさんのお客さんが入る、素晴らしい劇場であり続けることをお祈りしております。
30周年、おめでとうございます。
この劇場の記念すべき年に主演を、しかも“ハムレット”をやらせて頂けていること、大変光栄に思っております。 これからも彩の国さいたま芸術劇場のファンの皆さま、そしてより一層多くの皆さまに喜んで頂ける作品をお届け出来るよう、頑張っていきたいと思います。 心からの応援、宜しくお願いします。
開館30周年おめでとうございます。リサイタルや、室内楽を含むシリーズなど何度も大変お世話になった彩の国さいたま芸術劇場は、素晴らしい音響と温かいスタッフに迎えられる度に帰ってきたと思える場所です。ここでだからこそ生まれる音楽の対話やインスピレーションのお蔭で、いつも楽しい本番となりました。これからもアーティストたちが高め合い、音楽を深め、お客様と最高の芸術を共有できる素敵なホールでいてください。
彩の国さいたま芸術劇場30周年、おめでとうございます。
私は、もうかれこれ25年以上にわたって、演奏会・レコーディング・リハーサルなど様々な場面で、この素晴らしい空間を享受させて頂きました。これからもますます発展されることを心より願っております。この度は本当におめでとうございます。
30周年おめでとうございます。私が初めて彩の国さいたま芸術劇場で踊ったのは、2000年のNDTの日本公演の時でした。そして、その12年後にNoismとして公演した時の感動は今でも忘れられません。劇場は芸術作品を生み出し、それらを社会と繋ぎ、人々の記憶を紡ぐ場所であると感じております。時代が変わっても、さいたま芸術劇場が「記憶」を次世代に長く受け継いでいく場所であることを、心より願っております。
人が持つ喜怒哀楽感情の爆発を何度も何度も受けとめる劇場施設。その耐用年数が約30年なのは納得できます。今回のリニューアルは、さらなる大爆発を受けとめるためかと思います。どうかこれからも、「人の生きる熱量」を受けとめる場所であってください。
30年前というと、ちょうど演劇と出会って、始めた年になります。彩の国さいたま芸術劇場さんとは、2016年から関わらせていただき、別れも含めた沢山の出会いがありました。それこそ千人を超える高齢者の皆さんとの演劇は、ここだからこそ成し得た、世界でも類を見ない素晴らしい企画でした。今後もこの劇場が、素晴らしい出会いの場であり続けることを、そして私もまた何かでその一人になれることを願っております。いてくれてありがとうございます。そしておめでとうございます。
30周年おめでとうございます。2010年に『聖地』という作品で蜷川さんとさいたまゴールド・シアターのメンバーとご一緒しました。その時、蜷川さんの演出は魔法に見えましたし、メンバーの頑固でクセのある演技は衝撃でした。その扉を開けてしまったからにはもう後戻りできないと思えるほどの出会いであり、実際、ゴールドのメンバーとは今でも作品づくりを続けています。また、現在の芸術監督の近藤さんとのひょんな出会いによって、ダンスと演劇の垣根を越えた、刺激的な作品を生み出せたこともありがたく思っています。これからもさいたま芸術劇場が、年齢、キャリア、立場の異なる作り手たちの出会いの場であり、同じく観客の皆様どなたにとっても、偶然目の前に現れた扉を開けることで、未知の世界へ一歩踏み出してしまうような作品に出会う場であることを願っています。
岡山の老人ホームで働きながら演劇活動を行っていた僕にとって、彩の国さいたま芸術劇場との出会いは、世界の演劇という大きな営みの中で自分たちの活動を見つめ直す、貴重な機会となりました。さいたまゴールド・シアターの皆さんと作品を作り上げた時間は、本当に幸せなひとときでした。これからも、地域と世界をつなげ、舞台芸術の可能性を照らす劇場であり続けてください。
「劇場に行ってみたいけど何を観たらいいのかわからない!」
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※《おすすめ公演診断》は、公演の内容や特徴を踏まえて設計していますが、科学的な根拠や理論に基づいたものではありません。
※この企画にはどなたでもご参加いただけますが、招待への申込みが多数の場合は埼玉県内在住の方を優先させていただく場合がございます。
私の心の中のさいたま芸術劇場
音楽ホールとの出会い
ロミオとジュリエット
雪の日のオルガンコンサート
劇場の顔
発表会の思い出
ありがとう、良平さん!
青春の思い出
日常からのランディング
将来の夢が『役者』になった場所
ご縁でしょうか
お腹の子どもと出演した発表会
芸術劇場で合唱コンクール
さい芸に感謝!
長く続くご縁、これからも
音楽ホールの極上の響きに身を浸す至福の時間
高齢者の演劇集団に参加して
さい芸とわたし
1996年。25歳の時に、友人に誘われてラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス『2』を観に彩の国さいたま芸術劇場まで初めて来た。その時は蒲田に住んでいて、埼京線は初めて乗ったし、1時間半くらいかけて、もう旅な感じだった。たぶん駅弁とか食べながら。
コンテンポラリーダンスの公演を生で観たことは、それまで何回もあったはずだけれど、全く異質なものを観てしまった・目撃してしまった、と感じ、非常に衝撃をうけた。もうなにも詳細を覚えていないくらいわすれてしまったけど、死ぬ時に今まで観た公演で何が一番ステキだった?と聞かれたら、これしか思いつかないくらい。
その作品のラストの曲が、今でも2番目くらいに好きなギタリストがカンパニーに提供していた曲で、かかってすぐに気がついてクレジット見て確認できて、そういうつながりにもびっくりしたりもした。どうにか音源を手に入れる方法はないかと、臆していたけれど意を決して音響ブースに行き、拙い英語でカンパニーの音響さんに尋ねたらさっぱり伝わらなくて、どうしようと思っていたら、その時そこにいた彩の国さいたま芸術劇場の音響スタッフさんが通訳?してくれて、「あぁ、CD化しようって話があるから、そのうちにお店で買えるよ」と教えてもらえて、大変ありがたく思った。聞いて良かったとホントに思った。
25歳の時は、自分はまだナニモノでもなくて知らない人はみんな敵だと思っていたけど、その時優しく丁寧に対応してもらえて、やがてその2年後に音響さんになるきっかけのひとつになったんじゃないか?と本気で思う。そしてさらにその10年後くらいに、彩の国さいたま芸術劇場の音響スタッフとして働くことになるとは、本当に人生面白いと思う。神様ありがとう。
結局、その音源はCD化されることなく、手に入れることはできなかったんだけれども。
全部騙されてた(笑)!
故蜷川先生の企画、原案による1万人のゴールド・シアターに、後を引き継いだノゾエ征爾先生のもと参加し、その後ゴールド・アーツ・クラブとしての公演の全てに参加、その準備、練習をこの劇場で行いました。その日練習した事は次の日にはほとんど忘れるという年寄りのなさけなさでしたが、多くの仲間との楽しい交流を持つ事ができました。コロナ下で解散しましたが、当時お世話になった劇場関係者の方々に深く感謝すると共に、劇場が益々発展していくことを心から願っております。私はさいたま市に移り住んで約55年になりますが、近くに散歩の折にはよく光の庭で休憩させていただき、折々の劇場の情報を知り、イベント等にもたまに参加したりして、今も私の生活の一部になっております。
追伸:ニックネームは団員当時の私のナンバーです。
豊かな残響を誇る音楽ホールの客席に座ると、奏者の奏でる音楽と各楽器の音色は、ひときわ優美な響きの衣を纏い、全身を包み込みます。その極上の空間に身を浸し没入して演奏を楽しむ、まさに至福のひと時です。特に思い出深いのは、2019年10月佐藤俊介とオランダ・バッハ協会管弦楽団の演奏です。半年間の入院闘病生活後に久しぶりに音楽ホールで聴いた極上のバッハには、体の芯まで揺さぶられるような深い感動を覚えました。また、私は演奏者としても音楽ホールを長年愛用しています。所属する浦和フィルハーモニー管弦楽団はさいたま市で活動するアマチュアオーケストラで、数多くの演奏会を音楽ホールで行い、多くのお客様にお楽しみいただいて来ています。中でも2001~05年に開催された「彩の国シューベルト・シリーズ」で交響曲全9曲を演奏したことは忘れられません。ここで磨いた古典音楽のアンサンブルはその後の活動の礎となりました。
昭和30年代後半、私は与野西中学校に通っていました。いつもお隣の古谷製菓からは甘いキャラメルの香りが流れてきました。そのたびにキャラメルがなめたくなりました。それから30年。まさかお菓子工場が「芸術劇場」に姿を変えるとは…
昭和58年(1983年)から、仲間と「与野朗読の会」で朗読を楽しんでいます。発足当初からご指導を頂いたのは、NHKやその他で、俳優・声優として活躍された巖金四郎先生でした。芸術劇場オープンの前年「来年与野に素晴らしい劇場ができたら、先生の朗読独演会をやりましょう」と話していましたが、夢叶わず、開館の年の暮れに先生は亡くなりました。先生はいらっしゃいませんが私たちは、第10回(1995年)の発表会から小ホールや映像ホールで発表を続けています。今も10月19日「第36回秋の会」が迫ってきており練習に励んでいます。「さい芸」が身近でとても大切な場所です。
開館の年、近くに引っ越して来ました。小学生だった私は、“彩の国シェイクスピア・シリーズ”上演とともに沢山の戯曲に触れ、多様な解釈を受容する自由な表現に引き込まれました。そして劇場で、生の舞台だからこそ感じられるエネルギーや美しさに心奪われました。それから30年…今や立派な観劇オタクに成長(笑)。人生を彩る素敵な趣味に出会わせてくれたさい芸に感謝です!! とっておきの1枚は、22年上演『ヘンリー八世』幻の千穐楽を2年半越しに叶えられた日の夕陽です。民衆となり旗を振るラストは、何故だか涙が。記憶に残る体験でした。“素敵な劇場のある街”に暮らしていることが誇りです! これからも、沢山の作品や人を結び、人生を豊かにする出会いが生まれる、そんな場所であり続けてください!
私は彩の国さいたま芸術劇場の隣にある与野西中学校に通っていました。二年生の時、私は合唱コンクール実行委員になりました。合唱コンクールを行う場所はもちろん彩の国さいたま芸術劇場です。学校行事の中で、合唱コンクールが一番好きでした。そのため、私は練習に力を入れ、クラスで最高の合唱ができるように、日々努力しました。本番は、普段は行くことが出来ない舞台袖や舞台裏に行くことができ、とてもいい経験になったと思います。大きなステージで歌う合唱は、とても気持ちが良かったです。結果は、最優秀賞を取ることができました。ステージで、校長先生から賞状を貰った時はとても嬉しかったです。賞状は、今でも大切に額に入れてあります。三年生になり、彩の国さいたま芸術劇場での合唱を楽しみにしていましたが、コロナ禍でできませんでした。これからも与野西中学校と彩の国さいたま芸術劇場がいい関係であって欲しいと思います。
現在19歳になった長男の産休に入ってすぐ、当時保育士をしていた私が通っていたピアノ教室の発表会がありました。大きなお腹で弾いたのは、ソロでベートーヴェンのソナタ「悲愴」第2楽章、先生と連弾でフォーレの子守唄。芸術劇場での発表会はその時が初めてで、プロの録音にも使われる素晴らしい音響、スタインウェイの響きを経験出来て、緊張しましたが感激しました。後から、他の大人の生徒さんが、よかった、とおっしゃってくださったと先生から聞き、嬉しかったです。産まれた長男も中学生までレッスンに通い、息子のようにかわいがっていただきました。育休明けからは、私は専ら子どもとの連弾で、今はすっかりピアノから離れてしまいました。長男は、高校から軽音を始め、現在はDTMの作曲を学んでいます。立派な音楽好きに成長しました。胎教って本当にあるんだな、と今になって実感しています。
開館20周年記念の記事が載った「埼玉アーツシアター通信」の写真に、横断幕を背にして写りこみました。大好きな劇場の節目に自分がいることができたと今でも嬉しく思います。さて、その数年後に再就職した印刷会社でのこと。ある日、隣の席のパソコン画面に馴染みのある「アーツシアター通信」の表紙があったので、同僚に尋ねると印刷データの修正をここでしているという返事が。思わず「私、前に載ったことがあります!」と言うと、その号もその同僚が手がけていたことがわかりました。時と場所を超えた何という偶然でしょう。これがきっかけで職場に馴染むことができました(これも劇場のおかげです)。シェイクスピア・シリーズから通い始めたさいたま芸術劇場。最近は身近な存在に変化していると感じます。観たくなる演目がかかる劇場がわが街にある、なんて素敵なことでしょう。新たな出会い(演目)を期待して、これからも通います。
小学生の娘の2回目のミュージカル挑戦がさいたま芸術劇場の小ホールでの上演でした。前回よりセリフ多めの素敵な役をいただいて娘は静かに闘志を燃やしていたようです。本番の数日前に劇場の下見に来ていたとき光の庭でダンスのイベントが開催されていて家族で参加しました。その時、新聞記者の方に「将来の夢は?」とインタビューされて「役者です」と答えていて驚きました。いままで何度か同じような質問をされても特に夢はなく答えられずにいたのに、はっきりと「役者」と答えていたからです。本番当日、小ホールで演じている娘は本当に楽しそうに役を生きていて我が子ながら「素敵だな」と思ったのを覚えています。将来役者になって「役者を目指したきっかけは?」と問われたら「さいたま芸術劇場の小ホールで演じた役」と答えることでしょう。将来役者にならなかったとしても夢に向かって努力したことが次の夢に繋がるでしょう。そんな一歩を踏み出した場所。
与野本町の駅からバラの植込みの傍を歩いて行く。その先に並ぶのはこれまでに上演されたシェイクスピア・シリーズの記念プレート。手形や作品名を眺めながら進んだ道の向こうに現れる、さいたま芸術劇場。高い壁面から『ヴェローナの二紳士』の大きな看板が迎えてくれる。ゆっくりスロープを上がり、コロッセオの底のような円形の広場にたどり着く。日常からのランディング。ロビーでのチェロとマンドリンの生演奏が物語への扉を開き、ステージいっぱいに置かれた雑多なものが港町の賑わいの場に誘う。終演後、楽しく今観た喜劇の話をしながら歩く、暗くなった帰り道は、ポツリポツリとひかる敷石が誘導灯となって駅まで連れて行ってくれる。さっき観た、聴いた、言葉を見つけた。劇場と日常を繋ぐ道程も楽しみの一つでした。
高校在学中、音楽(合唱)部に所属しており、毎年、さいたま芸術劇場の音楽ホールで定期演奏会を行っていました。一年生のときには、初めての大舞台に緊張しながら、飛んでいく音の響きと観客の拍手に感動。二年生のときには、部の中核として責任を感じながら、観にきてくれた先輩たちはじめ観客のみなさんに良い演奏を届けようと奮闘。三年生のときには、最後の演奏会を成功させようと新しいことにも挑戦。アンコールの曲を歌い切ったとき、涙で客席が滲んだのを覚えています。もちろん観客として、客席で演奏を聴いたこともありますが、やはり一番に思い出すのは、舞台上からの景色と舞台裏で過ごした時間です。舞台袖での慌ただしさと高揚感は、今でも鮮明に思い出せます。私にとって、さいたま芸術劇場は、青春の1ページに刻まれた何よりも思い出深い場所です。
芸術劇場の近くに住んでいます。ある日、夫と劇場の前を散歩中に通りかかると、建物の中から飛び出すように(踊るように)出てくる男性がいました。
その人は近藤良平さん。近くに居た女性数人が「良平さんどこに行くの?」「ちょっとおにぎりでも買いに行こうかと」と良平さん。「あら、それなら、私おにぎり持ってるのよ」「わー、うれしいな、頂きます」と受けとる良平さん。
そのやりとりにとても親しみを感じて、ちょうど販売中のコンドルズチケットを事務局で購入。
あれから毎年のようにコンドルズのイベントに来ています。それをきっかけに他の劇場の舞台や芝居も見に行くようになり、夫婦の楽しみが増えました。
長男が保育園の頃から始めた音楽教室の発表会で何度か利用した。エレクトーンを弾いたり、歌を歌ったり。子どもの習い事だったけれどレッスンでは親も一緒に歌ったりすることがあった。子どもだけでなく親同士も仲良くなり、20年以上たった今もその時のクラスのママさんと子ども抜きでのお友達だ。当時の写真を見ると子どもたちもとても仲が良さそうなのがわかる。おとなになった彼らが再会したら、どんなことを話すんだろか? と思う。
今から10年以上前ですが、大学生の時に先輩から誘われて、劇場のレセプショニスト(劇場にいらしたお客様をご案内するスタッフ)として勤務していました。劇場の仕事で1番好きだったのは、客席ポジションの仕事でした。たくさんの俳優さんが、客席を行き来し、いつも下手の後ろの客席には蜷川幸雄さんが座っていました。客席ポジションの時には毎回ドキドキしていました。また、公演が終わってお客様に「ありがとうございました」とご挨拶していると「今日の公演はとってもよかったわ」とお声をいただき、俳優さん達と違ってお芝居はできないけれど、1人のスタッフとして、公演のお役に立てたのではと嬉しくなりました。「スタッフは劇場の顔」と当時のマネージャーさんがおっしゃっていた言葉を胸に、4年間勤務していました。大学卒業と同時にレセプショニストは辞めてしまいましたが、劇場に行くたびに今も当時のことを思い出します。
彩の国さいたま芸術劇場が所有するポジティフオルガンの演奏を中心とした「光の庭プロムナード・コンサート」は、今年で130回を超えます。毎回、バロック音楽を中心とした多彩なプログラムで楽しませて頂いています。なかでも記憶に残っているのは、2006年1月21日のコンサートです。(当時は「オルガン・ミニ・コンサート」と呼ばれていました。)出演者はオルガンの徳岡めぐみさんとソプラノの星川美保子さんで、モンテヴェルディやヘンデルの音楽を聴かせていただきました。当日は朝から雪が降りとても寒い日で聴衆もまばらにもかかわらず、お二人の心のこもった演奏に心を打たれました。気が付くと館内清掃の方々も足を止めて聴き入り熱心に拍手を送っておられ、「光の庭」全体がとても温かい雰囲気に包まれたことを思い出します。人の心を溶かす音楽の力を実感したひとときでした。
彩の国さいたま芸術劇場開館30周年おめでとうございます。思い出があり過ぎて何を切り取ったら良いか選別し難いですが、やはり彩の国シェイクスピア・シリーズは最高でした。1998年第1回公演『ロミオとジュリエット』1/22昼の部は取っていただいたチケットで観劇しました。蜷川作品との出会いもここからスタートでしたね。37作品全通し上演! これは観ないと! と思って会員になりました。毎回衝撃でした。『リチャード三世』では舞台の上から馬が落ちてきたんです。ドスンと鈍い音、今でも身体が覚えています。そして次回作への期待は増すばかりでした。しかし毎回その期待を超えてくるんです~それは本当に毎回衝撃でしたね。これからも2ndシーズン見届けていきます。
彩の国さいたま芸術劇場との最初のご縁は音楽でした。自分は楽器は無調法なため、せめて沢山の音楽と生で触れたいと願い、叶えてくれたのがさい芸でした。『音楽ホール30年の軌跡』というガレリアでの企画に出会え、もう何年も前の演奏が蘇り、まるで昨日のことのように感動できることに胸が熱くなりました。様々な挫折や困難を乗り越えて舞台に立つ芸術家の、心からの思いが込められた生の演奏を聴ける事が当たり前でなかったコロナ禍。技術は元より、人間性も感じられる舞台がどれほど私の心の健康や成長に大切であったか思い知らされた期間でもありました。音楽のみならず演劇・ダンス・狂言等などジャンルを超えて、心に響く芸術を堪能できる様々なチャンスを目の前に用意してくれるさい芸の素晴らしさ。感謝です。これからも心の栄養のために、素晴らしい舞台に拍手を送り続けたいと願っています。
昭和40年、もう60年近くも前の事、大宮市内の小学校2年生だった私は、社会科見学で大宮消防署、与野公園、古谷製菓工場を見学しました。中でも甘いチョコレートの香が漂っていた古谷製菓工場、お菓子が造られる工程を親切に説明していただいたこと、今も懐かしく思い出されます。しかし残念ながら数年後工場は解体され、広い空き地となってしまいました。その後大学生になった私は蔵造りのお店が残る与野本町通り、そして工場跡地の原っぱ沿いの道を通って大学に通うこととなりました。やがてその工場跡地に彩の国さいたま芸術劇場が造られることになったのです。バラの町与野の地に作られた芸術劇場、その名にふさわしく気高く、美しい会館でした。かつて甘いチョコレートの香が漂っていた古谷製菓工場、今は多くの人々に文化の香、感動を届けるようになったさいたま芸術劇場、彩の国の芸術の聖地として今後も素敵な歴史を刻んでいってください。