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彩の国さいたま芸術劇場 |

ダンス

【エサ=ペッカ・サロネンに聞く】テロ・サーリネン・カンパニー『MORPHED−モーフト』

2015年4月08日

 

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Q:今回のテロ・サーリネンとのコラボレーションのプロセスは?


エサ・ペッカ・サロネン(以下、サロネン):今回はテロが私のところに私の既存の曲に振り付けたいと言ってきました。そういう意味で、今回は、一からの共同作業という訳ではありません。しかし興味深いことに、《フォーリン・ボディーズ》も《ヴァイオリン協奏曲》もいずれもある程度、振付的な背景がある曲です。実際、《ヴァイオリン協奏曲》はニューヨーク・シティ・バレエが委嘱元の一つに名を連ねていて、この曲をバレエ作品として舞台上演した最初のカンパニーになりました。ニューヨークで、ピーター・マーティンスの振付でした。《フォーリン・ボディーズ》は、本来はオーケストラの楽曲として作曲したもので、ダンスのための楽曲ではなかったのですが、作曲にあたっては「ダンス」というものを非常に意識していて、「誰かこの曲に振り付けてくれないかな」と密かに願っていたのです。実際にこの曲からいくつかのダンス作品が生まれました。私の知っている限りテロは3人目だと思います。3つともそれぞれ独特の世界がありどれも素晴らしいものです。

テロとはもう長い知り合いです。最初に出会ったのは80年代の初め頃だったかと思います。フィンランド国立歌劇場で、テロは国立バレエのダンサーでした。私はアシスタント・コンダクターとして、数え切れないほど『ジゼル』を指揮していました(笑)。テロはその頃まだコール・ド・バレエの一員だったかと思います。89年にヘルシンキの現代音楽フェスティバルで一緒に何か創ろうと彼を招いて、その後もあちこちで顔は合わせていましたが、大きな作品でのコラボレーションはこれが初めてです。

今回の彼の仕事にはとても満足しています。私の音楽を本当によく理解してくれ、楽曲のなかに私自身も見出したことのないものを聴き取ってくれた。音楽の音響的な響きに寄りそってくれただけでなく、楽曲のなかに潜んでいるエモーショナルな側面を示してくれました。私自身でさえ初めて気づかされたことも多く驚きました。これは作曲家としてとても嬉しい贈り物ですよね。自身の音楽について、突然に新たな発見が目前に示される。しかも自分でも気付いていなかったものを。これこそが、コラボレーションの美というものでしょう。

 

Q:そのなかでも具体的に素晴らしいと思われた点は?


サロネン:私の方が少し年長ですが、私とテロはほぼ同年代です。私には『MORPHED』が、男性のアイデンティティを扱っているように感じられました。出演するダンサーたちも男性のみです。男の人生。個人的に作品から感じたのは、男性にとっての「ミッドライフ・クライシス」、人生にはいつか終わりがくるという現実を自覚することです。男性にとってこの現実とうまく折り合いをつけることは、女性にとってよりも難しいと思います。女性は男性よりも自然摂理とつながっていますから。「誕生」「生」「死」を女性はより自然に受け入れますよね。男は死を否定して、ある意味、夢のなかに生きていますから。それが遂に、死を認めなければならない段階にやってきた。まだ数年は残されているかもしれませんが、そのうち絶対的な終わりが訪れるわけです。テロはこの問題を扱っているように感じました。アイデンティティ、つまり自分が何ものかということ、何ものになろうとしているのか、しかし現実にはどうなのか…。これがまた、つねに変化していくわけですけれどね(笑)。自分にはさまざまな顔があって、それぞれの間には隔たりがあるわけです。
私はこの作品をとてもエモーショナルに捉えました。他の人たちにとってもそうでしょう。だからこそ、『MORPHED』という作品がフィンランドから国境を越えて生きていく機会を与えられたことを、非常に嬉しく思います。長く上演され続けて欲しいですね。

 

Q:テロ・サーリネンというアーティストについてどう思われていますか?


サロネン:彼は常に探求を続けています。成功や名声を手に入れ、環境も整ったとき、最大の問題として立ちはだかるのは停滞です。「繰り返し」という危険。定型ができ、ものごとがうまくいっていると、同じことを繰り返したくなるものです。ところがテロは断じて「繰り返し」を嫌います。だからこそ、新しい作品のひとつひとつが、彼にとっては非常に濃厚なプロセスだと思います。時には痛みをともなうことでしょう。それでも過去を捨て去り、一から新たなスタートを切るのです。まさしく偉大な芸術家である証しだと思います。絶え間なく再生し、思考を検証し、再評価する。彼のそういったところを非常に尊敬しています。

 

Q:ダンスのための楽曲や、人間の身体に触発された楽曲を、これからも作曲されたいと思われますか?


サロネン:音楽は文化現象であるとともに、生物的で生理的な現象であると思っています。文化というものは常に音楽とともにあります。この地球上に音楽のない文化というのはありえない。加えて音楽は、言語と同じように私たちの身体や脳と密接につながっています。言葉は咽頭というとても限定された気管の働きによって発せられます。それから脳ですね。この脳と咽頭という短い距離のなかで発生します。たいして音楽はしばしば、楽器といった身体の延伸によって生み出されます。もっとも原始的な音楽は、木の棒で樹木の幹を叩くといったところから始まったであろうことは、想像に難くありません。最初の音楽的試みです。それはすでに、道具を使った身体の延伸によっておきる生理的現象と言えるでしょう。人類の道具使用の最初の例のひとつだと思われます。もちろん現代ではオーボエやファゴット、ヴァイオリン、それにシンセサイザーのような、高度に発達した道具を使うようになりました。ですが身体の延伸という意味では同じです。身体の延伸、それにともなう精神の拡張です。私はクラシック音楽を含め音楽全般を、文化としてだけ捉えることに関心はありません。そこには常に身体的な要素がふくまれています。

例えばモーツァルトのような作曲家についてもそうです。パリで以前、さまざまなホールを紹介する展覧会があったのですが、モーツァルトがパリで自作を演奏したというホールについての展示もありました。その形や寸法から、この部屋では「ハフナー」交響曲の冒頭は、地震のように鳴り響いたに違いないと確信しました。反響のよい小さな部屋、少人数の観客、そのようななかで交響曲の冒頭の力強い響きはまるで、ヘビーメタルのコンサートのようだったはずです。心にひびくより先に、体を直撃するようなね。現代の演奏会では、こうした感覚が失われているように思います。大きなコンサートホール、遠くの方でオーケストラがモーツァルトの交響曲を演奏しているのを聴き、それを美しいと感じる。しかしその曲が初演された時代と比較したときには、(そういった経験は)真実のごく一部でしかなかった。観客にとっては衝撃があったはずです。ベートーヴェンの交響曲「英雄」にしても、衝撃的だったはずです。身体的な衝撃です。だからこそ、身体や動きと結びつく仕事は魅力的です。かつてすべての音楽にあった身体性を取り戻す。

クラシック・コンサートにおける問題のひとつは、コンサート会場では動けないことです(笑)。《春の祭典》のようなグルーヴィーな曲だったとしても、大人しく座っていなければなりません。ダンスとオーケストラ曲を結びつけることは、身体性に再びアクセスするための一つの素晴らしい方法です。観客として観るのだとしてもね。私はいつも、いかに動きと音楽が互いに影響を与えあうかということに、心を奪われてきました。私の夢は、現代のテクノロジーによって音楽とダンスが相互に反応しあう、高度にインタラクティヴな関係を築くこと。ある種のヴァーチャル・リアリティですが。実現できると嬉しいですね。

(2015年3月 取材協力:株式会社ジャパン・アーツ)