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彩の国さいたま芸術劇場 |

音楽

【ロング・インタビュー】ピアノ・エトワール・シリーズ アンコール! Vol.2 北村朋幹

2014年1月17日

彩の国さいたま芸術劇場に5年ぶりに登場する北村朋幹さん。
今回の演奏会、そして最近のことについて、現在ベルリンで研鑽を積む北村さんへ、2013年11月、音楽ライターの飯田有抄さんにメール・インタビューをしていただきました。


◆今回のプログラミングのテーマについて

——北村さんが2008年12月にご出演された「ピアノ・エトワール・シリーズVol.7」では、ご自身の編曲作品、小品、名曲を含む多彩なプログラムをお聴かせくださいました。
きたる2014年3月15日の「アンコール!」のプログラミングは一層シリアスで、日頃コンサートではあまり聴かれることのない組み合わせの作品が並びます。この4作品には「厳選されたもの」を感じますが、北村さんは今回のプログラムにどのようなテーマを設定されたのでしょうか。


彩の国さいたま芸術劇場ではこれまでに二度、演奏させていただいています。一度は、ご指摘の2008年の公演、そして実はその前に2006年にも「ピアニスト100」というシリーズに出演させていただき、これは僕にとって初めての二部構成のフル・リサイタルでした。どちらの公演も、折角頂いた貴重な機会という事で、やりたい事を全て盛り込ませていただいた、という感覚があります(確か、一度目は演奏時間だけで2時間を超えるような、異常に長く、重たいプログラムでした・・・)。興味のあるレパートリーに手当たり次第に触れ、コンサートという場で演奏させていただくといった経験は当時の僕にはとても大きな意味がありましたが、それから数年経ち、「自分が本当に取り組みたい事」あるいは「今どうしても取り組んでおくべき事」がだんだんと明確になってきたように思います。実際今は、好きな曲を取りとめなく羅列して弾くよりも、コンセプトを毎回の演奏会に設け、そのコンサート全体で一つの世界観を表現できるようなプログラムの方が僕は(弾くのも聴くのも)好きですし、何よりその方が、作品の本質に近づける気がするのです。
ここ最近はベートーヴェンの作品を自分の研究の中心においており、今回のプログラムも当然、そこから着想しました。メインとなる「作品106」は今年(2013年)の初め、意を決し向き合い 始めた非常に大きなレパートリーで、その後何度か人前でも演奏させていただきましたが、正直なところまだまだ謎の多い作品です。過去2回、様々な事に挑戦させていただいたこの会場で、どうしても演奏してみたかった。どこまでも奥深く、史上稀に見る大作(問題作)ですが、そこから感じた事を、今回の緩やかな テーマに設定しました。


◆個々の作品についての聴きどころ

——今回のリサイタルは、フーガに始まりフーガで幕を閉じる(「ハンマークラヴィーア」終楽章)ことになりますが、フーガといえば一般的にはバロック音楽の技法といった印象が強いと思われます。
とりわけシューマンのこの《4つのフーガ》は、一聴したところバロック的な雰囲気に満ちていて、私たちが抱くシューマンのイメージとは異なる作品です。今回 北村さんは、シューマンの作品からなぜあえてこのフーガを選ばれたのでしょうか。あるいはフーガを弾くにあたり、あえてシューマンを選ばれたのでしょうか。
また、J.S.バッハのフーガなどと比較したときに、この作品に何かしら「シューマン的なもの」は感じますか?


ご指摘の通り、フーガというのはこの曲を選んだ一つのきっかけとなりました。
フーガという事で言えば、例えばメンデルスゾーンは本当に素晴らしい曲集を遺していますし、勿論バッハの作品群については言わずもがなです。そして確かにこの作品も、楽譜を見れば大変堅牢な書法で書かれており、それは先人たちに続くようなバロック的な書法とも言えます。しかしながら、その楽譜から見えてくる景色、即ち実際に「音」としてこの作品が現れた時、そこにはシューマンでしかあり得ない、独特な視点に満ち溢れています。それを言葉で説明するのは大変難しいのですが、常に夢みがちで、自らの内的な世界に、取り返しのつかないほど深く潜り込んでいってしまうような……ほとんど危険といっても差し支えない、ある種の陶酔感のある作品といっても良いかもしれません。それを「辛い現実世界の救いを音楽に求めた」と言ってしまうのは簡単ですが、作曲家が作品を書く意味とは何か? と彼の作品に触れる時、いつも考えさせられます。実はその疑問こそ、後半の「ハンマークラヴィーア・ソナタ」に取り組む上で最も難しい問題の1つなのではないかと思っています。“Alle Menschen werden Brüder…”と謳ったベートーヴェンですが、果たして作品というのはパーソナルなものなのか、或いは誰かに向けられたものなのか。
でももっと簡潔に答えてしまえば、他のどの作曲家よりも大好きで、心から尊敬している芸術家、シューマンの作品を、どうしても1つ弾きたかった、というのがこの作品を選んだ最も正直な理由かもしれません。


——ベリオの《セクエンツァ�》は、跳躍やアタックの変化が激しい技巧的な作品であり、テクスチュアの変化に耳を澄ませるだけでも楽しめる作品かと思います。
北村さんが演奏上、聴衆の皆さんにもっとも注目(注耳?)していただきたいポイントはどんなところでしょうか?


この作品と「ハンマークラヴィーア」の共通点は、楽器及び奏者(奏法)の限界に挑戦している点と言えます。
この夏、イタリアの現代音楽を研究されているある学者さんと、この作品群についてお話させていただく機会があったのですが、彼曰く、演奏がこの上なく困難な(時に不可能な事も書いてある)この作品群で作曲者は、彼が遺せる唯一の手掛かり(即ち楽譜)から演奏者が「何か」を読み取り、楽器とその演奏の可能性を広げる事を望んだ、と仰っており、とても納得しました。
ただ「現代音楽」と言いつつも、実はもう50年も前の作品。その後様々な作曲家が実に色々な事を書き連ね、演奏者が急に立ち上がり、ピアノの中に頭を突っ込んで指で弦を直接弾(はじ)く、ピアノの側面を叩くなどといった書法も当たり前となった 今となっては、この作品はもう「古典」なのかもしれません。ですが、僕はそこにこそ、この作品の魅力が隠れていると思っています。あくまでも、古くから続くピアノと演奏者の適切な距離を保ちつつ……などという言い方は冗談だとしても、88鍵と3種のペダルのみから創りだされる多種多様な響きはとても新鮮で ありながら、どこか懐かしい手触りを感じる瞬間すらあります。そこには、オーガニックといいますか、「自然」そのものの音があり、演奏しているとまるで架空の森の中を彷徨っているような感覚に捉われます。
 

——ご自身の「プログラムに寄せて」という美しい文章の中でも言及されていますが、スクリャービンの《ソナタ第10番》に対して作曲者自身は「太陽」と「昆虫」といった言葉を残しています。それぞれがシンボライズするものは何なのか、北村さんはどのようなものとして受け止めていらっしゃいますか?
「神秘主義」に傾倒していたスクリャービンですが、北村さんご自身が「神秘」を感じるもの、時間、色などはありますか?


実は何年も前から、もしも自分が「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を含むプログラムでリサイタルをするなら絶対にこの作品とカップリングをしたい、と思っていました。そこに何か明確な理由があれば良いのですが、実はこれはほとんど感覚的なもので、強いて言うならばどちらの作品も、非常に眩しい強烈な光のようなものを、ひたすら無我夢中で目指す本能的な生命力のようなものがある、といったところでしょうか。
僕自身は残念ながら「神秘主義」のような思想には大変疎く、また昆虫も大の苦手なのですが、それでもスクリャービンが言わんとしている事が全く理解できない訳ではありません。作曲家が各々の思想を基に作品を遺してくれた事によって、演奏者はその時々でどのような宗教或いは思想の垣根をも越えて、何かを感じ取る事が出来ると信じています。先ほどのベリオ作品で「架空の森」という表現を使わせていただきましたが、この作品でスクリャービンは音を用いて自らの手で世界を創造しています。でももしかしたら作曲という行為自体がそもそも、そういった類のもの、現実世界に無い場所を創ることなのかもしれません。
音楽に携わるものとして、やはり「時間」には神秘的なものを感じます。曲は演奏が始まるとひたすら終止線に向けて進み、決して後戻りはできませんが、それでも場合によってはたった3分の演奏がその後何十年も心の中に残る事だってあるのです。それでも、演奏家はその3分のために10年間費やしていたかもしれない。人生の時間は限られていて、それを操るという意味では、演奏という行為は非常に責任もありますし、そう思うと何とも微妙な部分を生きている気にもなりますが、たった数秒で人生観を変えてしまうような「魔法」は実際に存在するのです。僕も今までに何度か、演奏会を聴いた際その瞬間に出会いました。
その瞬間でしか味わえないからこその刹那的な美しさ、この瞬間芸術こそ、もっとも神秘的なものだと思います。


——いずれも高い集中力・テクニックを要する3曲のあと、プログラム最後に大曲「ハンマークラヴィーア」に挑まれるわけですが、この作品へと北村さんを向かわせたモチベーションとは何でしょうか?
また、非常にレパートリーの広い北村さんにとって、あらためて「ベートーヴェン」とはどのような位置づけの作曲家ですか?


まだ幼かった頃、僕は自分の事を「モーツァルト弾き」だと思い込んでいました。モーツァルト作品と向き合う際、何の疑問も、何の迷いも持たずにただ音を紡ぐ事が出来ていて、古典派作品を弾くとなったら迷わず彼の作品を選んでいたので、必然的に数年前まで僕のベートーヴェン作品のレパートリーは本当に限られたものでした。もちろん偉大な作曲家として尊敬していましたし、いくつか本当に好きな作品もありましたが、それ以外のものは「自分と関係ないもの」と、無視していました。
ですが歳を重ねるにつれて、どうしてもベートーヴェン作品を弾かなければならない機会も多くなり、ある時彼の作品31-3のソナタ を勉強していた際、突然、作曲技法の素晴らしさ(それを読み解く面白さ)に気付き、更にそれを音にした時の、恐ろしいほどの生命力に圧倒され、びっくりして色々な作品を読み始めました。以来、ゆっくりとですが彼の作品と1つ1つ向き合っています。
彼という作曲家について、とても簡単には語れませんが、人生を正直に音楽に反映させていた作曲家であり、音楽を以って人が生きていく事の厳しさ、そしてその苦悩があるからこその生の喜びというものを全て見せてくれる作品からは、音楽が存在する1つの意味を見出せます。
この「ハンマークラヴィーア・ソナタ」に関して言うと、今出会っておかないといけない作品という気がしました。つまり、将来かなり歳を取ってからこの曲を弾きたくなっても、体力的に弾けないだろうという現実的な問題、それからこの難解な作品を理解するには恐ろしい年月が掛かると思っているので、それならば1 日でも早く触れておこうと思い、かなりの覚悟と共に始めました。


◆5年間を振り返って

——「エトワール・シリーズVol.7」から5年が経ちました。この間、さまざまな舞台を経験され、留学もなさいました。その中で、ご自身の中で大きく変化した考え方がありましたら教えて下さい。

最も大きく変化した事は、ピアノを弾くという事、音楽を「演奏する」という事が昔ほど簡単ではなくなったという事でしょうか。今思えば当時はとても自信がありましたし、自分の置かれた状況を楽しんでいました。幼いころから当たり前のように慣れ親しんできたピアノですが、そしてそのために人生を懸けるという事 に1度も疑問を持ちませんでした。
でも、ある程度歳を重ねて自分の人生というものを考えた時、その限られた時間で自分がやりたい事、それと自分の持っている才能を照らし合わせ、あまりに自分が未熟だと気付き愕然としました。人間は様々なものから影響を受けて、知識だけは増えていきますから、理想はどんどん高くなっていきます。にも関わらずそこに自分が全く追いついていない。限界のようなものを感じてしまう。
でもそれは悪い事ではないと思っています。今も毎日、その自分の限界を1ミリでも上げるべく音楽と向き合っている訳ですが、そのような「挑戦」が課された人生には、とても価値があると信じています。
以前は、自分がピアノを弾いているのは、たまたまピアノという楽器と最初に出会ったからであり、自分は音楽をしているのだと思っていました。勿論今でもそういった考えはありますが、それでもピアノに向き合えば向き合うほど、この楽器の奥深さを毎日発見し、今では自分がピアノを弾く人間である事を誇りに思って います。


◆日常の姿勢から

——北村さんの演奏は高い緊張感と、音楽へと向かう強い集中力が魅力的で、聴衆をぐっと引き込む舞台空間を作られます。そうした舞台を実現されるために、日頃から何か心掛けていらっしゃることはありますか?

基本的にはとてものんびりした性格だと自分では思っていて、そのせいで時間を無駄に浪費するのが怖くなり、無理やり予定を作ったりする事はあります。生活で心がけている事はほとんどないですし、むしろ僕の生活は本当に不健康だと自覚しているので、もう少し改善出来たら……と常に思っていますが、例えば何か1つの事が気になりだすと、本当に何もかも忘れて熱中してしまうので、それが上手く作用すると本当に良い状態で音楽と向き合えます。でも今のところ、それは自分ではコントロールできない部分ですので、残念です。


◆ベルリンの生活について

——2011年よりベルリン芸術大学で学ばれている北村さんですが、日本を離れた環境のなかで、もっとも刺激的なこと、あるいはしっくりくること、大変なことや楽しいと感じられていることなどを教えて下さい。

ヨーロッパの自由な雰囲気が大好きです。様々な考え方をする人がいて、当然それによって諍いも絶えませんが、自分に正直に生きる事が出来る場所だと思っています。更に今は学生というとても恵まれた身分ですので、1日24時間、本当に好きなように使えます。24時間本を読んでいても良いし、急に思い立って旅行に行ったりする事も可能。それからやはり、演奏会が沢山あり、それを驚くような値段で聴けるという事も、音楽の面では大きいです。
勿論演奏会はいつも質の高いものばかりがある訳ではなく、ある時は体調が悪くなるくらい腹立たしい演奏にも出くわしますが、そのように生演奏を聴いて良い事だけでなく色々な事を正直に思うのは、例えばシューマンなんかがやっていた事とも同じで、そのような生活が出来ているのも嬉しいです。
そんなこの上なく恵まれた生活がいつまでも続かない事は分かっているからこそ、何十年後に今を思い出して苦しいほど懐かしくなるくらいに、良い毎日を送れたらと思っています。そして勿論、その時一緒に思い出すであろう、魔法としか思えないような素晴らしい演奏に出会う事が出来るのも、ベルリンなのです。
 

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音楽に対する深く熱い思いを、ピアノの音色のみならず、巧みに言語化して伝えてくれた北村さん。考え抜かれたプログラミングによる作品群は、知性と感性の光り輝く彼の音楽観を美しく反映させるに違いありません。一音一音に込められる北村さんの魂を受け止めるように、その演奏に耳を澄ませたいと思います。


取材・文:飯田有抄(音楽ライター)