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ゴールド・シアタートップページ > 【エッセイ】さいたまゴールド・シアター第4回公演『聖地』――ハイバイ 岩井秀人


 蜷川さんに出会ったのは、かれこれ15年ほど前。僕が演劇の大学に通っていた頃で、「有名な演出家で『ニナガワ』という鬼がいる」と聞き、授業を受けると、やはり時々鬼になっていた。「おまえなんかコンビニの店員なんだよーーー!!」と、実際コンビニのバイトをやっている学生に言っちゃったりしてた。あと、俳優に水をかぶらせたりしていた。「これが、演劇の鬼か!」と思ってもいたが、ただ、水をかぶらせたのは、その俳優がずぶ濡れになっている設定だったからだし「もっと昔は鬼だった」という話も詳しく聞けば「刺されそうな男の役の俳優がダメダメだったから、実際にナイフを持って追いかけた」という話で、演出としては、そこまで丁寧なことはない。俳優が自分で起こさなくちゃいけない身体のある部分を、実際にその状況に近づけて呼び起こそうとするわけだから、全く持って変じゃない。一般社会的には「人が人をナイフでもって追いかける」ことは、なかなかありえないし基本的にはやっちゃダメだけど、目的が「ナイフで追いかけられる人を作りあげる」ことなのだから、これがダメだと言ったら、彫刻家に「木をずっとなでててください」と言うようなモノだ。そういう視線に未だに負けないで、嬉々として「めんどくせー俳優だらけだ!」と言ってる蜷川さんはスンゲーと思う。

 松井さんとは5年前くらい。ある健康食品屋で売ってる「神の水」みたいな水があり、それが健康に良く、店のヒット商品なのだが、実はその水は店の地下室で「神童」と言われる男のウンコで濾過した水で、その神童がちょっと不調でウンコが出なくなることが問題になる、そんな「地下室」という演劇を松井さんがやってるのを見たのが出会いだ。そのヘンテコな物語を見ててなんとなく「この感覚分かるなあ。。」と思う。というのは、僕は東京の片隅の武蔵小金井と言うところに住んでいるんだけど、23区に入れて貰えない感じというか、東京だけど東京じゃなくて、行けば30分くらいのところに、日本の文化とか流行の中心があるのだけど、だからってわざわざ行くのは癪だし、でも確実に羨ましい中で生活をし、その中ではぐくまれてしまった「流行や『何かを強く信じること』への不信感」のようなものが、その「地下室」には描かれていると思って、松井さんに色々話してみたら「どこ出身?」と言われ、お互いがその武蔵小金井出身で、しかも松井さんが中学校の先輩だったという結末になり、それからは仲良くして貰っている。ちなみに松井さんの演出は「チンチン」か「ゾンビ」か「ペニス」の大体三つのキーワードを駆使して行われる。例えば「もっとチンチンが顔のそばに近づいてきてる感じで、、でもゾンビだからそんなに敏感な反応はしないんだけど。。」と言った感じだ。それを聞いている中年女優さんの表情が、チンチンが近づいてきてるゾンビみたいで凄く素敵だった。

 松井さんの台本を蜷川さんが演出すると聞き、たまげた。しかもゴールドシアターだ。

 『船上のピクニック』『アンドゥ家の一夜』と、ゴールドシアターを見せて貰っていたが、半端なく面白かった。岩松さんの「ねえ、今、あなた、私のこと見ていたでしょう!?」という台詞が、蜷川さんにナイフ持って追いかけられた(られてないけど)ゴールドシアターの歴史深い身体から発せられると、ただ「見られたこと」についてではなく、「見られたこと」で犯されてしまう自分の歴史や、その個人的な歴史で辿ってきた道筋への、今更の疑いのような、「わたしたちの宿命的な、しょーもなさ」にまで持ち上げられ、「アンドゥー家」では、単純な「告白」でさえ、70歳の人がふられるってことの「こんなに生きてきたのに否定されちゃうの!?」という、やはり宿命的なしょーもなさに打ちひしがれ、それでもその賭けに挑む姿に、観劇中ずっと、体中を荒い紙やすりで擦られているような感覚を覚え、涙を滲ませられ続けてしまった。

 そして「聖地」だ。文学座の俳優にペニスバンドをつけさせ、別の俳優の口にほおばらせては観客を凍り付かせていた名手・松井センセイの戯曲を、「作家が恥ずかしがって奥まらせて書く本音」をナイフを持って引きずり出す蜷川さんがどう料理するのか。

 舞台は近未来、老人が自分で自分の命を絶つ権利を与えられた世界だ。「死ななくちゃいけない」じゃなくて、「権利を与える」ってところが良い。今にも音を上げそうな、というか、すでに音を上げているこの国家が近い将来ポロリと出しちゃった本音というか、もはや正直ともいえないレベルの意味のない正直さを提示された老人達が、老人ホームを占拠する。この時、老人ホームとその外の世界との違いは「死ぬ権利を与えられている・いない」の違いしかない。その「権利」を認めないということはつまり「俺たちはまだ死んじゃいけない。または死にたくない」という主張になるわけだが、その最大のモチベーションとなるのが老人となってもちゃっかり男子はいつでも男子になれる存在、「アイドル」だ。 そこに集まる、死ななくても良い理由を探す老人達。わたしたちは生きる理由を誰にも聞けない。言い古されたことだが、みんなが充分生きていける状況を作ることを全体の目標として生きてきた高度経済成長が終わって、その目標が達成されてみると、次の目標が全くなくなっていた、全員が「よそもの感いっぱい」の世界で、誰が明確に生きる理由を見つけられるのだろうか。
 「アイドル」であった「キノコ」は別の老女に乗り移り、老人達を誘導していく。国家を疑ったモノがあげくのはてにたどり着いたモノの提示がやはり、「集団意識のフリ」であることの悲しさったらない。

 カーテンコールで、ほぼ全員が出そろった中、最後に三人の出演者が舞台上に上がる。その中の一人が、足が悪いのか、歩くのが他の二人より遅い。「誰かがささえて舞台に連れて行くのかな」と思いつつ見ていると、他の二人はそのままカーテンコールの列に加わり、振り返り、その一人を待つ。見れば、全員が、列の準備を終え、その一人を見つめている。ほほえましくもせず、ただ彼を見つめている。「俺は一人で行ける」「彼は一人で来られる。自分の足取りで、彼は来ている」というだけのことが舞台上に響く。ゆっくりと、気後れすることもなく最後の一人は自分の足取りでカーテンコールに混ざり、終幕となる。

 生きると言うことは、戦うと言うことなのかも知れない。敵は世界であり、自分である。「私はここにいる。」という戦いだ。「殺す側」に立ちたくないという論理一点で、我々の味方は「殺される側」となる。我々の仲間が、次々に殺されていく中で「私はここにいる」という戦いだ。

 思い出したのは、地元の公民館で稽古をしていた頃のことだ。なかなかの確率で老人達に出会う。そして「劇はうるさいから他のところでやって」と言ってくる。もちろん公民館自体の決まりとして禁止されてはいない。でも言ってくる。しかも自分たちはカラオケをやっているのに、だ。そっちの方がうるさいのに!しかし、向こうからしてみたら、やっとたどり着いた聖地に、別の名前をつけてやってきたよそ者である私たちに、どう接したらいいのか分からないのだろう。だからって追い出すことはないのに、とも思うが、ゴールドシアターの、自ら志願して出演をし、こうやって最悪で情けない状況をおおらかに、わがままに見せつける姿を目の当たりにすると思うのだ。まずは戦いから始めよう、と。「カラオケの方がうるさいでしょ!」って。



岩井秀人◎いわい・ひでと
俳優・劇作家・演出家。2003年ハイバイを結成。2007年より青年団演出部に所属。東京であり東京でない小金井の持つ「大衆の流行やムーブメントを憧れつつ引いて眺める目線」を武器に、家族、引きこもり、集団と個人、個人の自意識の渦、等々についての描写を続けている注目の劇団ハイバイの主宰。2011年1月ハイバイ「投げられやすい石」をこまばアゴラ劇場で上演する。
http://hi-bye.net

財団法人埼玉県芸術文化振興財団